サンフランシスコ講和条約が昭和27(1952)年4月28日に発効し、日本が主権を回復して今年で70年を迎える。ロシアのウクライナ軍事侵攻の惨劇を目の当たりにする今、「主権」を改めて考えねばならない。

 主権とは、国家が他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う権利を言う。独立と言う意味である。大東亜戦争の敗戦後の主権喪失から7年後の独立だった。だが、真に独立たりえたのか。

 連合国軍の軍事占領からの主権回復には、「戦勝国」との間で戦争を終結させる講和条約を結ぶ必要があった。対日講和問題を初めて公式に取り上げたのは1947年3月、マッカーサー連合国軍総司令部(GHQ)総司令官である。

 これに対して共産勢力は「全面講和」「永世中立」を唱えた。「全面講和」とは共産国ソ連を含めた講和である。当時、ソ連は東欧諸国を軍事支配下に置き次々と共産化し、アジアでは中国大陸の共産化が目前だった。朝鮮半島の北はソ連軍が進駐し、金日成・共産政権を樹立。南(韓国)との赤化統一を狙っていた。

自由陣営一員の独立は意義深い

 全面講和のソ連の狙いは日本を中立化し、米軍を追い出し、時が来たら共産化するというものだ。全面講和は共産圏入りへの一里塚と位置付けていた。これに日本共産党や容共政治家、朝日新聞などが同調し、盛んに「全面講和」「永世中立化」を唱えたのである。

 その裏でソ連のスターリン、中国の毛沢東、北朝鮮の金日成は韓国侵略を準備し50年6月、朝鮮戦争を引き起こした。ソ連(その代理人の共産党や朝日新聞)の思惑通りに全面講和とすれば、ソ連軍の侵攻を招き再び戦場になっていただろう

 それも元寇の時のように朝鮮や中国が尖兵になり、復讐と称して言葉に絶する惨劇を繰り広げたに違いない(ジェノサイドはウクライナの比ではあるまい)。

 この野望を退け、自由諸国と講和条約を締結し主権を回復させた意義は限りなく大きい。今日の平和と繁栄の礎である。だが、それと引き換えに多くのものを失った

 第1に、南樺太と千島列島の領有権を放棄したこと。旧ロシア・ソ連との間で結ばれた条約では、同地が日本領地であることは自明で、放棄する国際法上の根拠は一切ない。もとよりソ連は同条約に調印しておらず、現ロシアに対しても放棄した事実は存在しない。南樺太と千島諸島の帰属について今一度、国際社会に提起する必要がある。北方領土は千島諸島ではなく、北海道に所属する固有の領土だ。条約でも放棄しておらず、ロシアが不当占領を続けている

 竹島については条約交渉の際、韓国が米国に対して領有を要求したが、米国は「日本が1905年以降、島根県の管轄下にあり、韓国からの領土権の主張は過去になされていない」(ラスク書簡=51年8月10日)として要求を退け、日本領と認定している。  こうした領土問題が主権回復から70年を経ても残されている。

 第2に、条約は日本を占領下に置き続ける「戦後体制」を日本に強いたこと。いわゆる東京裁判の判決を受諾させて「自虐史観」を植えつけ、それに拘束される「戦後日本」を作らせた。その〝遺伝子〟として戦後憲法を置き土産とした。これを戴いている限り、真に主権を回復したとは言い難い。

 GHQは日本を占領するに当たって軍事占領だけでなく、政治占領を決行した。これは占領地の現行法規を尊重する義務があるとする国際法(ハーグ条約=1907年)に違反する。同じ敗戦国でもドイツ(西ドイツ)は占領下で憲法を制定せず、暫定的にボン基本法を作り「(同法は)ドイツ国民が自由な決定によって議決した憲法が効力を発する日において、その効力を失う」と規定した。フランス共和国憲法は「いかなる改正手続きも、領土の保全に侵害が加えられている時には開始されない。また続行されない」としている 。

北海道と北方領土の衛星写真

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