2024年が閉じようとしている。そして新たな2025年が目前に迫ってきた。国土が敗戦の焼け野原だった80年前、21世紀は遥か彼方な未来だったが、今や21世紀も四半世紀を迎えようとしている。さらなる先の未来では、現世の人々が「戦後」と呼んだ時代を何と呼ぶだろうか。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の20年余は「戦間期」と称された。戦後80年もまた、「戦間期」になるやも知れない。それほど戦争の危機が迫っている。世界情勢は切迫している。これを克服し希望ある時代を呼び寄せねばならない。世界平和をいかにして成し遂げるか、日本国をいかにして守るか。国民は今こそ目覚めねばならないと我々は考える。
地球を俯瞰してみよう。大陸に登場した覇権国家が半島を通じて島国を飲み込もうと蠢動してはいまいか。その地鳴りが聞こえはしないか。新約聖書の「黙示録」にあるごとく、エデンの園の蛇の化身にして大魔王サタンの化身である邪竜、すなわち「赤い竜」が太平洋へと魔手を伸ばそうとしてはいまいか。狂暴極まりない白熊はどす黒い野望の爪を「烏克蘭(ウクライナ)」へと伸ばし、罪なき人々の命を奪い続けている。その白熊が半島の「狂った虎」と結託し、その矛先を島国へと伸ばそうとしてはいまいか。
日蓮の「三災七難」今日に通じる警告
こうした時代に日蓮は「三災七難」に説いた。「三災」とは火災・風災・水災、「七難」とは伝染病による災禍(人衆疾疫難)、季節はずれの暴風雨(非時風雨難)、干ばつ(過時不雨難)、内部分裂や同士討ち(自界叛逆難)、そして外国から侵略され脅かされる(他国侵逼難)ことを言う。日蓮はこれに警鐘を鳴らした。まさに「救国の予言」である。
今日の時代にあっても相通じる危機であろう。火災・風災・水災は東日本大震災で目の当たりにした。スーパー台風、南海トラフ大震災の到来に警鐘が乱打されている。伝染病による惨禍は新型コロナウイルスの記憶が鮮やかである。
鎌倉期には人々は浄土宗などを通じて「日本的霊性」(鈴木大拙)に目覚めつつあったが、それはともすれば「個人の救い」に関心が向き、国家全体の在り様は忘れ去られていた。それで日蓮はこう警告したのである。
―悪人もが念仏の一言で浄土に往くとすれば、人々の努力、自己責任はどうなるのか。自力の「聖道門」は全く意味がなく、努力もせず悪事を働いても、ただ阿弥陀仏にすがっていればよいのか。仏典ひとつ学ばず、布施もしないので寺院は荒れ果てているではないか。これこそ国土を荒廃させる元凶ではないのか、と。
日蓮は言う、「国は法によって繁栄し、仏法はそれを信じる人によって輝きを増す。国が滅び人が尽きてしまったならば、いったいだれが仏を崇め、だれが法を信じるというのか」(佐藤弘夫『日蓮「立正安国論」全訳注』講談社学術文庫)
さらに日蓮は説く、「国が失われ家が滅んでしまえば、いったいどこに逃げるというのか。あなたが自身の安全を確保したいと願うのであれば、まず国土全体の静謐を祈ることが不可欠なのだ」
今日の日本人には耳が痛かろう。戦後の日本人はひたすら「ゼニ」にすがってきた。それが「経済中心の戦後路線」である。現下の国会を見よ。「103万円の壁」論議が象徴するように自己の欲望を満たすことに汲々としている。もとより税の在り様も生活の向上も必要であることに我々とて異論はない。
だが、国を失えば、「円」はただの紙切れである。家が滅んでしまえば(選択的夫婦別姓がまさにそうではないか)、いったいどこに幸せがあるというのだろうか。内部分裂や同士討ちを繰り返す国会風景は「井の中の蛙」の争いを想起させる。
日蓮について言えば、時の鎌倉幕府の最高実力者、北条時頼に建白した。仏法を基本に据えた正しい政治によって理想社会(立正安国)を実現するか、それとも手をこまねいて亡国を待つのか、この二者択一を迫った。ときに文応元年(1260年)。それが聞き入れられず、14年後の文永11年10月に元寇が日本に襲来したのである。