日本共産党は1月に第29回党大会を開催し、志位和夫委員長に代わって田村智子氏(副委員長、参院議員)が新たに委員長に就任した。一般紙が「低迷の共産 刷新演出」(朝日新聞1月19日付)とするように刷新を演出する人事に他ならない。「敵の出方論」という暴力革命路線を内に秘める革命政党であることに何ら変わりはない。「公安調査庁は共産党を破壊防止法に基づく調査対象団体としている」(林芳正官房長官)ことを国民は忘れてはならない。この際、共産党の「罪状」を改めて確認しておきたい

コミンテルンの指示に今も忠実

 第1に、日本共産党の出自についてである。ロシアのボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党内の左派=後の共産党)集団が世界革命のために創設した「コミンテルン(国際共産党)」の日本支部として1922年に創設されたのが日本共産党である。このことは同党も認めている。すなわちボリシェヴィキの「申し子」なのである。

 では、ボリシェヴィキは何を仕出かしたのか。ロシア革命に際してロシア皇帝ニコライ2世一家を銃殺し、大量の硫酸を使って遺体まで消し去ったばかりか、おびただしい数の貴族や僧侶、資本家たちを粛清(殺害)した。そのうえ、ロマノフ皇室の没収資産を世界革命の資金とし、日本共産党にも莫大な金を注入した。その罪は自民党の派閥の裏金の比ではない。

 第2に、凶悪少年犯のような生い立ちについてである。日本共産党はコミンテルン加盟21カ条を丸呑みしたが(だから日本支部となった)、その第3条は「内乱へ向けての非合法的機構の設置」、第12条は「鉄の規律」、第21条は「コミンテルンに反対する党員の除名」を義務付けている。昨年、委員長公選を求めた党員を何ら弁解の機会も与えず除名したが、これはまさにコミンテルン加盟条件を地で行くものだ。

 日本共産党はモスクワの指導を受け入れ1933年、いわゆる32年テーゼ(綱領)をもって「天皇制廃止」を掲げ、「(満州事変の)戦争を内乱に転化し、ブルジョア=地主的天皇制の革命的転覆を招来する」ことを党の主要任務とし、闘争資金獲得のため東京・大森の川崎第百銀行を銃で武装して襲撃する事件(同年10月6日)などを引き起こした。治安当局が取り締まりに躍起となったのは当たり前の話で、これを共産党は「弾圧された」と称しているが、それこそ噴飯物の歴史捏造だ。

 当時、中央「アジプロ」部長兼「赤旗」編集局責任者だった宮本顕治氏は「スパイに鉄槌を下せ」と公然と〝死刑執行〟を煽り、自身は33年12月に「宮本が殺った」(袴田里見元共産党副委員長の証言=週刊新潮78年2月2日号)という「リンチ人殺し」事件まで引き起こした。それが現在、日本共産党が金科玉条とする「綱領路線」を築いた人物の実像である。

 ちなみに宮本顕治氏は33年12月に逮捕されたが、その罪状は治安維持法違反のみならず、傷害致死、監禁致死、死体遺棄、不法監禁、銃砲火薬類取締法違反等々の「併合罪」で無期懲役の判決を受けた。それが終戦直後のどさくさまぎれに網走刑務所から出てきたのである。

 第3に、戦後の共産党についてである。忘れてはならないのは国際共産主義(すなわちスターリンや毛沢東、金日成ら)の一翼を担い、1950年代に50年綱領をもって火炎ビン闘争を繰り広げ、朝鮮戦争を日本に引きずりこもうとした。まさに「戦争を内乱へ」(ロシア革命のスローガン)を実践しようとしたのである。このことに何ら反省も謝罪もせず、その後は爪をいったん隠す偽装戦術を駆使している。

 現在の党路線は「綱領路線」と呼ばれるが、これは宮本顕治氏が1961年に党内権力を掌握し「共産党綱領」(現在は一部改訂)を確立してスタートしたものである。それもコミンテルン(国際共産党)指令に忠実に従っている。

 すなわち彼が提示した二段階革命を通じた「日本革命への道」は、レーニンが1922年のコミンテルン第2回大会で打ち出した「二段階革命論」(民族および植民地問題に関するテーゼ)に基づくもので、まずアメリカ帝国主義を追い出す「民主主義革命」を、次いで「社会主義革命」を遂行するというものである。

国会で代表質問する田村智子委員長

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