「世界思想」6月号を刊行しました。今号の特集は「本土復帰50年 沖縄の来し方行く末 」です。
ここでは特集記事の一部【普天間返還合意から26年 激変する安保局面】をご紹介します。
沖縄の「本土復帰」
72年5月15日、沖縄復帰記念式典が日本武道館において、約1万人の参席者を集めて挙行された。佐藤栄作首相は、「沖縄は本日、祖国に復帰いたしました」と宣言。返還を平和裏に実現したことを強調した。
同日、那覇市の市民会館でも式典が開催され、米国統治下の琉球政府行政主席から沖縄県知事についた屋良朝苗氏が挨拶。「米軍基地の態様の問題初め、内蔵するいろいろな問題がある」と訴え、微妙な温度差を示した。
復帰後の50年、局面を変えたキーマンに焦点を当てつつ振り返ろう。
佐藤栄作内閣で沖縄問題も扱う総理府総務長官として初入閣した山中貞則氏は、72年の復帰時に発足した沖縄開発庁の長官を兼務した。
山中氏は返還準備期から返還後の復興まで剛腕を振るい、最高水準の補助率で道路、港湾などの整備を進めた。沖縄戦で消失した首里城正殿などの国費による復元の道筋も付け、補助金や税制の特例による優遇措置は、その後、沖縄の自立を妨げたとの批判が出るほどだった。それほどに沖縄復興に情熱を傾けた山中氏には「贖罪意識」があったという。薩摩藩による1609年の琉球侵攻にさかのぼり、太平洋戦争末期の沖縄戦では「本土決戦の防波堤」にしてしまったことへの「悔恨」だ。
普天間、辺野古移設問題
いとこを沖縄戦で失った橋本龍太郎氏は、沖縄に格別な思いを抱き、遺骨収集にも力を注いだ。首相に就任した1996年、沖縄では、前年におきた米兵による少女暴行事件で反基地感情が「爆発」した。
この事件は、95年9月4日、沖縄県に駐留する米海兵隊員2人と米海軍軍人1人の計3人が、女子小学生(12)を拉致、集団強姦した痛ましい事件である。逮捕監禁および強姦致傷の重大事件だ。
橋本氏は首相就任後初の日米首脳会談で、宜野湾市の市街地に位置する米軍普天間飛行場について、「県民の切なる願いは返還だ」と伝えた。
1カ月後、米側は「返還に応じる」とのメッセージを返す。それが、4月12日の日米両政府による歴史的な返還合意発表につながったのだ。
97年12月、名護市長の比嘉鉄也氏は「首相が普天間の苦しみを受け入れたことに応えたい」と語り、辞任と引き換えに同市辺野古への受け入れを表明した。しかし革新系知事の大田昌秀(当時)は慎重姿勢を崩すことはなかった。「5〜7年以内」での普天間返還をうたった日米合意から既に25年以上が過ぎている。