思想新聞6月1日号の【共産主義の脅威 シリーズ】「『3人産んで』で人口急減社会への処方箋」を掲載します。
左翼・フェミニストは「女性は子供を産む機械ではない」と発言を捻じ曲げて反発するが、大局的には「結婚し子供を産み育てることは、個人と家庭と社会全体にとって大きな宝である」「子育てに喜びを感じられる社会環境をつくる」という観点こそが重要だ。
5月10日に行われた自民党細田派の会合で加藤寛治衆院議員が、結婚披露宴に出席した際には「必ず3人以上の子供を産み育てて頂きたい」「世の中には、いくら努力しても子どもに恵まれない方々もいます。無理を言うのは酷でありますから、そういう方々のために3人以上が必要なんですよ」「結婚しなければ、子供が生まれず、人様の子供の税金で老人ホームに行くことになる」と呼び掛けていると述べ、出席者からセクハラで失言ではないかと非難され、「誤解を与えたことに対しおわびします」として発言を撤回した。
本欄で一昨年、大阪市の公立中学の全校集会で校長が「女性にとって大切なことは子供は2人以上産むこと」と発言し、同市教育委員会が「不適切」だとし退職させた問題を紹介した。この加藤議員の発言の趣旨は基本的に冒頭の中学校長の発言と同じだ。つまり、フェミニストらにとっては「女性を産む機械と決めつける暴言」と捉えている。
しかし、妊娠出産することは、女性にしかできない「特権」である。女性への「要求」だから「女性差別」のように捉えられがちだ。一般的な男性も女性がそう感じるならそうなんだろうと受け取りやすい。しかし、いくら能力や権力があっても男性には子供は産めない。せいぜい夫や伴侶として出産・育児に協力するぐらいしかできない。女性は一人で子供を産めと言っているのではない。だからこそ結婚は配偶者と共に家庭を築き、それが集まり集まって社会を形成する、という日本社会の問題に直結する問題となる。この観点がフェミニズムには全く欠けているのである。
もちろん、財務省で認定した事務次官の「セクハラ」行為(ハニートラップ的取材を差し引いても)は、批判されて当然だろう。だが「セクハラという罪はない」という麻生財務相発言や加藤発言まで「セクハラ」と騒ぎ立てるのは「セクハラ狩り」を「錦の御旗」にした言論圧殺のようで異常というほかない。
これに対し、堂々と「加藤寛治こそ憂国の真な政治家」と加藤発言を自身のブログ(「中川八洋掲示板」)で称賛するのが中川八洋・筑波大名誉教授だ。
中川氏は加藤発言をセクハラとフェミニズムの区別ができない自民党女性議員を批判。加藤発言は夫婦への発言で独身女性へのハラスメントにはならないこと、子を産めない夫婦の分まで産めるなら産んでとの要望は、人口急減社会への提言として傾聴に値し、しかも「人様の子の税金で運営される老人ホームに行く」のは事実ということだ。ハラスメントは刑法の「性犯罪」ではなく、当事者女性が親告した場合に事件となるので、この非難は無法の極みだと主張する。
実際に加藤議員の「試算」は事実だ。年出生人口が100万人を切った現在、深刻な問題である。こうした女性の「リプロ権」を喧伝する人々には、将来的人口政策や社会保障政策への抜本的な提案などない。結婚しなくてもシングルで子供を持てるというフェミニストはシングル家庭の貧困の解決策を提示できないのだ。社会保障だけ手厚くやればよい、と。これでは、ますます「他人様の税金」の投入が必要になるだけだ。こうした社会になればなるほど、将来の社会保障や税負担を世帯別で割れば、子供が多い世帯の負担が独身世帯よりも重くなる計算になる。その意味で加藤議員の発言は正しい。
フェミニズムの考え方では個人の権利を擁護することは得意だが、社会全体の「公共の利益」で考えれば、無策に等しい。だからトータル的に考えて「結婚し子供を産み育てることは人生にとって大きな得であり宝である」という観念を主流に置くべきではないか。心理学者のアドラーは、「人間は結婚し家庭を築くことで、自己中心的な世界観から解放される」と言う。フェミニズムがより跋扈し支配する社会では、もっと自己中心的な人間が増産されることは想像に難くない。
加藤議員を「真の愛国者」と擁護する中川氏の舌鋒は過激ではあるが、日本の50年後、100年後を考えたら極めて真っ当な正論であると言わねばなるまい。
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