安倍晋三元首相の銃撃死亡事件を機にメディアは銃撃犯が供述しているとされる世界平和統一家庭連合(旧統一教会)批判に同調し、銃撃犯と共闘するかのような反教団キャンペーンを張っている。それに関連して本連合の「勝共」が反社会的であるかように報じ政治家に断絶を迫っている。これは自由と民主主義を脅かす愚論である。

憲法は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(21条)とし、国民の権利とする。むろん権利は濫用してはならず、「常に公共の福祉のために利用する責任」を負い(12条)、それに基づく政治資金規正法は「政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的」として制定されている。本連合は同法に則って設立し、政治活動を行っている。選挙活動については公職選挙法に従っていることは論を待たない。

戦闘的唯物論は断じて許せない

レーニン著『共産主義における左翼小児病』

本連合の目的は名が体を表すように「国際勝共連合」すなわち国際的に共産主義に打ち勝つための連合を目指す。その柱に据えるのは勝共思想である。共産主義の思想的誤謬は歴史的に広く知られているが、わが国には共産主義を信奉する人々が多数存在し、政界やマスコミ界、法曹界等に浸透し、平和と安全を脅かしている。その克服を目指してその誤謬を啓蒙しているのである。

もとより憲法は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(19条)とし、思想と内心の自由を民主主義の基本的な権利とする。それにも関わらず、何ゆえに我々は共産主義思想の誤謬を主張するのか。それは共産主義が神や宗教の存在を断じて許さず、抹殺しようとする「戦闘的唯物論」だからだ。

一般的に唯物論は「世界・宇宙の根本を物質と見る考え方」とされる。これが普通の唯物論でギリシア時代からある。今日の社会には思想の自由があるから無神論者も唯物論者も存在する。そういう人々は大概、「自分は無神論、唯物論だが、思想は自由だから、人様がどう考えるかは自由、好き勝手にどうぞ」と言う。だが、共産主義は他人まで無神論・唯物論にしなければ気がすまない。ここに根本的問題がある。

それを腫瘍に喩えれば、ある細胞が腫瘍になっても他の細胞まで侵さない、影響を与えないという場合、それは良性腫瘍と呼ぶ。個人主義的無神論者のようなもので自分はそうだが、他人は好き勝手に、である。これに対して悪性腫瘍(ガン細胞)の場合、その細胞だけが腫瘍になっているだけにとどまらず、他の細胞も腫瘍にしてしまおうと転移する。それも次から次へと転移し、正常な細胞を異常細胞(悪性腫瘍)に変え臓器などの中枢を侵し死に至らしめる。

共産主義も同じである。他者を屈服させ自らの目的を達成しようと、必然的に権力奪取の運動を伴う。マルクスは「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない。大切なことはしかしそれを変えることである」(『フォイエルバッハに関するテーゼ』)と言い、レーニンは「(マルクスの)理論はまた教条ではなく、真に大衆的な、また真に革命的な運動の実践と密接に結びついてはじめて最後的につくりあげられるものである」(『共産主義における左翼小児病』)と述べ、革命を強調した。
マルクスは革命という目標を置き、それに動員するための理論として共産主義をつくり上げ、レーニンはそれを実践して血のロシア革命を成就させた。共産主義は、あくまでも革命実践のための理論なのである。

共産主義者によって殺された人々は実に2億人以上にのぼる。その意味で共産主義は核兵器以上に恐ろしい存在なのである。その思想が21世紀に生き残り、中国や北朝鮮で権力を握り、わが国のみならず世界を脅かしている。誤れる恐るべき思想が巧妙に日本社会に浸透しているとすれば、これを放置するのは国家的自殺に等しい。それゆえに国を守り、国民の生命と財産を守り、共産主義者自身に対しても本来の人格を取り戻すために我々は勝共思想を説く。これを「悪」呼ばわりするのは、それこそ共産主義者であろう。

 続きはこちらからお読み下さい。(勝共連合ホームページ)

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