ロナルド・トランプ氏が米国第47代大統領に就任し国際環境は大きく変わりそうである。もとよりウクライナ戦争が終わったわけではない。中国が「赤い魔手」を引っ込めたわけでもなければ、北朝鮮が核・ミサイル開発を止めたわけでもない。日本を取り巻く「悪の枢軸」の動きはまったく変わっていないのであるが、トランプ氏登場は自由・民主主義陣営が何をなすべきなのか、その針路を明確に定めるという意味において国際環境が変わりそうなのである。無論、それに応じて「悪の枢軸」の動きもまた、変わるであろう。わが国はこれらの変化に敏感に対応しなければならない。

 そんな中、通常国会が開幕し、石破茂首相は所信表明演説で「楽しい日本」を標榜すると語った。楽しい日本? 余りにも皮相的である。それはゴールとしては大いに結構な話ではあるが、国民はその「楽しい」を目指して日々、汗水を流して働き、主婦は家事に、高齢者は健康維持に努め、若き学生は勉学に励んでいるのである。今も受験生は必死で教科書を紐解き、「春の甲子園」を目指す高校球児は歯を食いしばって鍛錬していることであろう。だから、老若男女を問わず皆が知っている、「楽しい」に至るには「苦しみ」もまた超えていかねばならないと。

石破首相の粗雑な価値観こそ問題だ

 今日の内外情勢はその「苦しみ」を超えていく時ではないのか。極楽浄土も天国も地上には存在しないのだ。人類歴史はそれを目指して「苦しみ」を続けてきたことを想起しなければならない。「楽しい」を得るには何が必要なのか。石破首相の「価値観」はあまりにも粗雑である。読売新聞はこう指摘している。

 「(首相は)目指す国家像として故・堺屋太一氏が唱えた『楽しい日本』を掲げた。多様な価値観を持つ個人を重んじ、自己実現を図っていく社会を指すという。個人の価値観は尊重されるべきだが、そうした考え方が行き過ぎた結果、自らの権利ばかりを主張する風潮が社会に広がり、とても『楽しい』とは言えない状況を生んでいる面は否めない」(2025年1月25日付社説)

 普通の国民なら同じ思いを抱くであろう。「個人の多様な価値観」と称して人倫にもとる行為が世に溢れているからである。これを超克せずに「楽しい日本」も「楽しい世界」を創り出せるわけがない。今、必要なのは多様な価値観ではなく普遍的な共通の価値観、すなわち「絶対的価値観」である。

 「絶対的価値観」とは、時代を超え、民族を超え、国家を超えて、すべての人々に普遍的に受け入れられる価値観を言う。安倍晋三元首相はそれを外交に適用し「価値観外交」を推進した。すなわち民主主義、法の支配、基本的人権の尊重など共通の価値観を有する国々との関係を強化し、世界の平和を構築しようとする外交である。これらの価値観は絶対に譲れない。だから「絶対的価値観」というのである。

 もとより民主主義や法の支配、基本的人権には宗教あるいは歴史に基づく国柄から、その形態に違いはある。例えば、英国やスペインは君主制でありながら民主国家である。それは「王冠を戴く民主制」(政治哲学者、勝田吉太郎氏)と呼ばれる。わが国もまた「国民統合の象徴である天皇を戴く国家」(自民党改憲案)である。これらは普遍性の現われ方が個性(民族性)的であると捉えるべきである。

 国内における規範もまた普遍的である。殺人、強盗、傷害、窃盗、強姦、放火などはどの国においても主要な犯罪と定める。これは古来、普遍である。古代ユダヤの指導者、モーセの十戒は「汝、殺すなかれ 汝、姦淫するなかれ 汝、盗むなかれ」などと説き、わが国では祭祀を担った中臣氏の「中臣大祓詞」はスサノオノミコトが高天原で犯した「天津罪」(主に農耕に関する侵害行為)、国津神(人民)が国土で犯した「国津罪」(母子相姦など)などを記す。これらは歴史的背景が違っても共通の価値観の基底を成している。


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