共産主義の極左集団の一派、連合赤軍が1972年2月に引き起こした「あさま山荘事件」から50年が経った。彼らのうち7人は今も国外逃亡しており、事件はいまだ未解決である。共産主義の残虐性を改めて想起しておきたい。
連合赤軍とは共産同赤軍派と日本共産党左派・神奈川県委員会が合体して作った組織である。1970年代初めに銃砲店や銀行・郵便局を襲撃する事件を繰り返し、大菩薩峠で大量逮捕者を出すと、孤立を深め、疑心暗鬼となって仲間14人をスパイとして「総括」と称して殺し、追い詰められると、あさま山荘に人質をとって立てこもり、機動隊と銃撃戦を演じ、4人を死亡させた。世を震撼させた連合赤軍事件である。
共産党リンチ殺人事件とウリふたつ
連合赤軍事件の40年前の1932年、日本共産党はコミンテルン(国際共産党、事実上のソ連)から武装闘争路線(32年テーゼ)の指令を受けると、革命資金を得るため東京・大森の川崎第百銀行を襲撃。警察当局に追われ党員が次々と逮捕されると、追い詰められた党幹部は東京・幡ヶ谷のアジトで、同志をスパイと疑って査問し「輪番リンチ」にかけ、党中央委員の小畑達夫氏を死に至らしめた。
世に言う「共産党リンチ殺人事件」である。首謀者は現在の日本共産党の「創業者」である宮本顕治氏で、一緒にリンチに加わった袴田里見氏は「宮本が殺った」と証言している(『週刊新潮』78年2月2日号)。
戦後の1950年代には、東大の学生であった不破哲三・元議長も査問された。当時、東大細胞(支部)の幹部だった安東仁兵衛氏は「不破の顔が(殴られ)変形してきたが、手は緩められるどころか激しくなった」(『戦後日本共産党私記』現代の理論社)、「査問は宮本派中央の直接指示によるもので『スパイは殺してもいい』って指示がきた」(『朝日ジャーナル』76年2月20日号)と述べている。
不破氏は生き残り、書記局長に抜擢されると(70年)、70年安保闘争で台頭した青年組織(民主青年同盟)の影響力を抑えるため今度は査問する側に回った。全学連元委員長で民青中央委員だった川上徹氏は「新日和見主義分派」のレッテルを貼られ、突然、東京・代々木の党本部の一室に2週間も閉じ込められ査問を受けた(『査問』筑摩書房)。
川上氏によると、「自殺予防」のために防衛隊員なる党員が添い寝する異常な査問部屋で、査問官(今井伸英氏=当時、民青副委員長)が「君、君が消えてくれるのが一番いいんだけどな。ネ、茂木さん(査問責任者=自治体部長などを歴任した最高幹部)」との発言が忘れられないと述懐し、「もし日本がソ連・東欧型の社会主義国になっていたとしたら、間違いなく自分は銃殺刑に処せられていただろう」と、査問の実態を語っている。
本連合は連合赤軍事件が発覚した1972年に「連合赤軍=日本共産党」「宮本顕治もリンチ殺人」の一大キャンペーンを展開し、当時、革新自治体ブームに乗って絶頂期にあった共産党の本質を国民に広く知らしめた。連合赤軍事件とは共産主義、とりわけレーニン主義に基づく党組織論の所産であることは明白だ。
植垣康博・元連合赤軍兵士は毎日新聞2月16日付「論点」で「(事件の原因は)大衆運動や革命を指導する前衛党の組織論だ。指導部がすべてを決定し、下部は絶対服従するというロシア革命以来の考え方である。この組織論が、ソ連や中国、カンボジアなどで粛清や虐殺を起こした。私たちも、規模は違えど同じ過ちを犯した」と懺悔している。 植垣氏はあさま山荘事件直前に逮捕され、8人の殺害に関与したとして懲役20年の判決を受け、98年に出所した人物だけに、この言葉は重い。