戦後80年の節目の年を迎えた。日本国民はいつまで「戦後」を冠して生きていくつもりなのか。我々は改めて問いたい。

 世界を見よ、もはや既存の戦後システムは音を立てて崩れ落ちている。弱肉強食のジャングル世界に陥っているのである。露中北の独裁専制国家はハイエナが餌にありつこうと牙を剥くが如き様相を呈する。それでも国民は何もせず無為な時間を過ごそうと言うのか。

 国内を見よ、道義心溢れる日本人は消え失せ、政治も経済もひたすらゼニ勘定に走っている。それも人権とか多様化とか、もっともらしい御託を並べて。人の道から外れ肉欲だけに身を任せ、「宝物」である家族や子供を蔑ろにする超少子化社会を招来せしめている。

 それが「戦後体制」である。牽引してきたのは個人万歳・人権万歳の「戦後憲法」にほかならない。そういうエセ日本から真の日本を取り戻す。国民自らが新憲法制定・自主憲法制定へと立ち上がらねばならない。

道徳的義務を問う先人の声を聞こう

 歴史の歯車を今一度、引き戻してみよう。それは占領下の昭和21(1946)年の第90帝国議会、いわゆる制憲議会における憲法草案審議である。政治哲学者の故・勝田吉太郎氏はこの議事録を読み直して大いに心を打たれたと述べている(『平和憲法を疑う』講談社、昭和56年刊)。

 「膨大な憲法草案審議の議事録をひもときつつ、私は万感胸に迫る思いを味わった。…その結果、私はいまや現行憲法の改正なくして、言葉の深い意味での戦後は終わったとはいえないであろうと思うようになった」

 占領下の制憲議会では現在忘れ去られてしまった国家存立への根本的問いかけがあった。例えば、キリスト者・内村鑑三の弟子、南原繁東京帝国大学総長はこう訴える。

 「(他国の好意に依存する現行憲法では)むしろ進んで人類の自由と正義を擁護するが為に、互いに血と汗の犠牲を払うことによって、あい共に携えて世界恒久平和を確立するという積極的理想はかえってその意義を失われるのではないか…いやしくも国家たる以上は、自分の国民を防衛するというのは、またその為の設備を持つということは、これは普遍的原理である、これを憲法において放棄して無抵抗主義を採用する何等の道徳的義務はないのであります」

 連合国軍総司令部(GHQ)が突き付けた9条に真っ向から挑んでいる。南原氏は全面講和論を唱え吉田茂首相から「曲学阿世の徒」と罵られた、いってみればリベラル的人物だ。その人をもってしてもこの言である。敗戦直後の完全な自由もパンもない中で、いや、だからこそ、返って人々の精神は緊張していたと勝田氏は読み解く。

 が、その後の憲法論議にはそうした根本的問いかけがないのである。根本的問いかけとは、つまるところ「生命を賭しても祖国を守る義務」、つまり「生命を捧げても護持すべき価値」を問うことだ。「そういう生命を捧げても護持すべき価値とは、とうてい金では換算できないもの、絶対に金では買えない類のものであるはずだ。人格的尊厳とか、名誉、恥、愛情や友情、あるいは国の自由と独立、あるいは宗教者にとって神の栄光や信仰の大義、あるいは学問や芸術上の営為など、これらは元来、金では購いえないものである」

 これに対して現行憲法は個人、それも肉体の生命を至上に置き、「人権栄えて道徳滅ぶ」の体を示す。だから勝田氏は平和憲法を疑うのである。


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