1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災から100年が経つ。近代日本の帝都を襲った大地震はあまりにも苛酷で、自然災害の黒船のごとく人々を覚醒あらしめた。それゆえに先人は9月1日をもって「防災の日」と定め、自然災害に身構えてきたのである。「備えなき者は滅ぶ」。このことを肝に銘じた100年であった。だが、十分とは言い難い。いや、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」に陥っている。とりわけ危機を想定しない「平和憲法」がもたらす戦後体制の弊害を国民は改めて想起しておく必要がある。
関東大震災は、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7・9の大地震によって首都圏で10万棟を超える家屋が倒壊。発生が午前11時58分という昼食時と重なったことで多くの地点で大規模な延焼火災が起こり、被害を広げた。
すなわち全半潰・消失・流出・埋没の被害を受けた住家は総計37万棟にのぼり、死者・行方不明者は約10万5000人に及んだ。
戦後憲法が有事体制を拒絶した
これを教訓に自然災害への備えが叫ばれるようになり、さまざま対策が練られ、かつ実行に移されてきたが、戦後日本はあまりにも脆弱であった。西にあっては阪神・淡路大震災(1995年)、東にあっては東日本大震災(2011年)の惨禍に見舞われ、あるいは新潟県中越地震(04年)、熊本地震(16年)等々、列島の至るところで大小の地震に遭遇した。
そして今、首都直下地震や南海トラフ地震、日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震などが迫っている。少なくとも我々は東日本大震災の教訓を想起して関東大震災100年の総括とすべきだろう。
東日本大震災それは大地震と大津波、そして原発事故の3重苦の大災害であった。戦後最大の災害であるばかりか、史上稀な惨禍を招いた。東京電力福島第1原子力発電所は大津波に襲われ、あってはならない原発事故を引き起こしたのである。
それは有事を想定しない平和ボケ「戦後体制」がもたらした惨劇であった。かかる事態は誰が考えても緊急事態である。もはや平時の態勢では収拾できない。海外なら緊急事態あるいは有事で臨むのが常識だ。ところが、戦後日本は憲法に緊急事態条項がなく、法整備も不備だった。
福島第1原発事故を巡って国会の事故調査委員会は12年、「事故は自然災害ではなく明らかに人災」と指弾している。官邸や規制当局の危機管理体制が機能せず、とりわけ菅直人首相(当時、民主党政権)ら官邸による発電所現場への直接介入が現場対応の重要な時間を無駄にしたほか、指揮命令系統の混乱を拡大し被害を広げたからだ。
「人災」は全ての法制度の基礎となる憲法に緊急事態条項つまり「国家緊急権」が示されていなかったことに由来する。法律レベルにはさまざまな「緊急事態」の対処法が規定されているが、「憲法の壁」(護憲主義)に阻まれ機能しなかった。
第1に、菅直人政権は「安全保障会議」を開催しなかった。安全保障会議は国防のみならず、災害などの「重大緊急事態」にも対応できる。緊急事態を発すれば命令指揮系統を一元化し、迅速な対応が可能となった。
第2に、災害対策基本法に基づく「災害緊急事態」を布告しなかった。同法では国の経済や公共の福祉に重大な影響を及ぼす激甚な災害が発生した場合、首相は閣議にかけて災害緊急事態の布告を発することができる。そうすれば不足している生活必需物資の配給や譲渡、引渡しなどの緊急措置を命令でき、支援物資を迅速かつ的確に被災地に送れた。
第3に、警察法にある「非常事態の特別措置」を採らなかった。同法では国の経済や公共の福祉に重大な影響を及ぼす激甚な災害が発生した場合、首相は閣議にかけて災害地域に災害緊急事態を布告できる。そうすれば全国の警察官25万人を首相直属として動員でき、消防も統括指揮官を置き、系統だった救援復興活動ができた。
第4に、政府は現地対策本部を設けなかった。設置すれば「速戦即決」での対応が可能となったはずだ。